好きなことが形になることについて


先日バービー育美さんと、久しぶりにランチをしました。
3〜4年ぶりかな。
以前、よくセッションにいらしてくださっていて
ときどきARIAのこともブログ内で書いてくださっています。
育美さん、ありがとう!!!

バービ育美さんのHP


花鳥風月スタイル診断という活動をされていて
今とても人気です!
また、とても美しくなって
人間的にも成長している育美さんでした。

育美さんの、初詩集をいただだきました。
イラストもかわいいですね。

『森の歌 風の声』
こちらで購入できるそうです。



ここからは引用です。

自分はどうしてここにいるのか、
私は一体何であるのか、
自分自身のなかで続いてきたその問いかけに、
言葉という一つの表現を通じて、
私は生命と呼応しあっているのかもしれません。


私は問いかけ続けてきましたが、
本来人は,生まれた時から、
その答えと共にあるがままに生かされています。
ただたくさんの物語の中に埋もれ、
忘れてしまっているだけで。

真実には言葉は要りません。

それは,本当のことでしょう。
それでいて、、
真実を表現するために人は言葉を使います。

私の問いに対して現れてくる言葉が、
誰にとっても、真実の扉、「愛」に
気づくものとなりますよう願いをこめて。



私も同じ問いがあって、
それは育美さんと共通するのかなと思いました。
私は言葉もそうだけど
形で表現したいというのもあって
言葉にならないものが
一瞬で伝わったらいいなってよく思います。


でも、やっぱり言葉がないと
伝わりづらいというのもあったり
言葉が補足してくれることで伝わった経験も多いです。


彼女は物心ついた頃から、
「本を書く」と思っていたそうです。
ブログなどを時々拝見させていただいていますが
やっぱり書けば書くほど洗練してくるんだなって
彼女を見ているとそう思います。


そして、好きなことだから
ずっと続けられるんだなって思います。
彼女の詩集も、彼女に「降りてきた言葉」が綴られています。
読んでいると、元気になりました。



言葉にすること
形にすること


それは、ひねり出すものではなくて
すでにあるものが湧き出してくるものなんだなって
最近、また確認しました。


形にすることについては
企業のデザインを長年していたこともあるのと、
小さな頃からの私の
「人の期待に沿わないといけない」というパターンが、
たまにひょっこり顔を出すことがあります。


そういうときは、やり過ぎていたり
無理していたり、が多いです。
たいてい悲しくなります。
そのときには、よくわからなかったけど
そういうときの自分の感情が
悲しいという理解だったんだな…


セッション、特に「オーラ」や「運命の輪」のような
リーディングが好きなのは、
変ないいかたかもしれないけど
「降ろす」ことだから。


それには何の努力も緊張もありません。
自由で楽でとても楽しいのです。


自分の中から湧いてくるものを
根拠なく言うことに対して、
開業したての頃は少し不安もありました。


でも、長年(17年!)
やってきて、人が変化していったり
成長することを目の当たりにしていると、
これが私が持っている一つの特長なんだなと思えるようになりました。


そして埋もれていた
自分のある部分は顔を出すことができたし
何よりも自分自身が癒されました。


私たちは「自分自身がする」のでなく
「受け取る」だけでいいのです。


たまにはやっぱり、外に探したり、ひねりだしたりもありますが、
ちゃんとそれに気がついていればいいのだと思います。


そのうちに変化していくもので
数多くやっていけばいくほどそれを実感します。


好きなことをあきらめないでくださいね。
コツコツ形にする作業を続けていくと
どの人もそのひとの美しさや素晴らしさが
この世界にどんどん花開いていきます。



生身の身体を通して


枝ぶりがすごくかっこいい木です。

今日も風が冷たかったけど良いお天気でした。
いつものように公園を走りました。
最近は歩くことなく走れています。
面白いもので、速く走ろうとしなくなってから
逆に走れるようになりました(笑)




走るようになってから、この本を読み返したくなりました。
村上春樹さんの本は、あまり読んではいないのですが、
この本は大好きで何回か読みました。

この本を書いた頃の村上さんと
今の私が年齢的にも重なるくらいなので
より響いてくるんだろうと思います。
以下は本の中からの抜粋です。




自慢するわけではないが、
(だれがそんなことをじまんできるだろう?)、
僕はそれほど頭の良い人間ではない。

生身の体を通してしか、
手に触ることのできる材料を通してしか、
ものごとを明確に認識することのできない人間である。

何をするにせよ、
いったん目に見えるかたちに換えて、
それで初めて納得できる。

インテリジェントというよりは、
むしろフィジカルな成り立ちかたをしている人間なのだ。

もちろん少しくらいのインテリジェンスはある。
たぶん、あると思う。
そういうのがまったくないと、
いくらなんでも小説は書けないだろう。

しかし僕は頭の中で純粋な理論や
理屈を組み立てて生きていくタイプではない。
思弁を燃焼にして前に進んで行くタイプでもない。

それよりは身体に現実的な負荷を与え、
筋肉に呻き声を(ある場合には悲鳴を)上げさせることによって、
理解度のメモリを具体的に高めていって、
ようやく「腑に落ちる」タイプである。

いうまでもなく、そういう段階をひとつひとつ踏んでいると、
ものごとの月論が出るまでに時間がかかる。
手間もかかる。

ときには時間がかかりすぎて、
やっと腑に落ちたときにはもう手遅れだったという場合も出てくる。

でも仕方ない。
それがそもそもの僕という人間なのだから。






私は彫金もやっているのですが、
最初のころ先生に、
「藤井さんは失敗して学ぶタイプだね」
と言われました。


他の人には丁寧に説明しているのに
私には考えさせるためか、
説明が少なかったように、その頃は感じていて、
最初の頃はそれが不満でした。


他の人のように手取り足取り教えて欲しいのに…
と思っていましたが、
先生はその人にあった教えかたをしていて
私には実際にやってみて覚えるような教えかたでした。


今はそんなことも感じないくらいに慣れてしまったのですが、
当初は、火を扱ったりする工程も多いので、やっぱり不安でした。
不安に思っていることが
あんまり外に出ていなかったのかもしれないですが、
それでも内心は不安だったな。
今は懐かしく思い出します(笑)


新しいことや初めてのことをするときは
いつもこんな気持ちになるんだけど
私の場合は、そうやって体感していきながら
覚えていったり、理解が深まるようです。
だからゆっくり時間をかけていこうと思います。




本を読んで考えたこと



古本屋でタイトルに惹かれて読んでみました。
ちょっと「一般受け」狙いな感じの切り口ですが
この本から何かを得るというよりは
カフカの言葉にとても惹かれました。
その中から一部を抜粋します。



将来に向かって歩くことは、ぼくにはできません。
将来に向かってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。

                ーフェリーツェへの手紙ー




これは恋人に向けた手紙の一節です。
ここまで書けるかな…(笑)
ここまで「正直」に書けるというのが、すごいなと思いました。
表現する時に、自分を曲げられない人だったのでしょう。


相手に、というよりは、自分に向けての言葉のように感じました。
相手と共有するというのは二の次のような感じです(笑)
それでもこの女性とは2回婚約して婚約破棄して
別の女性とも婚約して破棄していたそうです。


だから、どんな表現をしようとも
その人にとって好ましいならば
大丈夫ということなんだなって、妙に納得しました(笑)


表面上、上手くいかせることって
自分の中に薄い膜のようなものを作っていくような気がします。
目にうろこが1枚ずつ貼りついていくような。
自分の中にモヤモヤしたものが溜まっていって
プレッシャーになっていくんですよね、私の場合。


カフカの言葉は、とても深いところに届くし
自分の中にある何かを浮かび上がらせてくれます。
自分に対する「問い」になっているから
自分の中の意味とか、価値を確認する機会になるかなと思いました。




生きることは、たえずわき道にそれていくことだ。
本当はどこに向かうはずだったのか、
振り返ってみることさえ許されない。
         
              ー断片ー




そうそう!そのとおりです!!!
このことで今までずっと自分を責めていたんだけど
ようやく、「仕方ないよね」って思えるようになったこの頃です。


人生の目的とか、方向性とか、
定まっていても、定まっていなくても
どちらでもいいのかもしれません。



ずいぶん遠くまで歩きました。
五時間ほど、ひとりで。
それでも孤独さが足りない。
全く人通りのない谷間なのですが、
それでもさびしさが足りない。

          ーフェリーツェへの手紙ー




一人で過ごす時間の中でしか生まれないものがあります。
そういう時間を大事にしたいなと思います。
何も作り出していないように見えても
意味のない時間に思えても。



ぼくの仕事が長くかかること、
またその特別の性質からして、
文学では食べてゆけないでしょう。

          ー日記ー




だからといって、やめないで
文学と向き合う力を持っているところが
むしろ弱さよりも強さを感じました。


目先の利とか、戦略とか、
生活していくには大事なものだとは思います。
でもそこばかりに目を向けるよりは
もっと広い視野を持ったときに見えてくるものを
大切にしたいなと思いました。







金子ひとみさんのご本


こちらは以前にセッションを受けていただいた
手作り石けん作家で講師でもある、金子ひとみさんのご本です。
金子さんのHPはこちらです。
お菓子のような美しい石けんを作る金子さんは
この本も撮影からすべてに関わって作られたそうです。
だからこの本は金子さんのエッセンスがつまっていて
丁寧に作られていてとても美しい本です。

金子さんのお話によると
本を出すことはセッションの時に出てきて
背中を押されるかたちでがんばって来れたということでした。


もの作りとか、独りでやる仕事の場合は
自由に自分の能力を発揮できる良さがありますが
チームワークとはまた違った大変さもあります。
そういうときに、ちょっとしたアドバイスとか励ましとかがあると
もともと持っていた力をスルッと発揮できたりします。


制作中もいろいろ大変なこともあったようですが
山あり谷ありを乗り越えて、思ったかたちにできあがったそうです。
制作しつつ、本も作業も同時に進行されたと思うと
本当にすごいなと思います。
この本を拝見して励まされました。


私が一番好きなのがこちらの石けんです。
涼しそうな水の波紋の中で泳ぐ金魚たち。
泡もまたかわいいですね。
和菓子の世界のようです。
使うのがもったいないような…




作り方も詳しく載っています。
私にはちょっと難しそうなので、作ろうと思ったら
お教室に通ってみるのもいいかなと思いました。

私もいろいろ習い事をしてきましたが
やはり実際に見て学ぶことは
教えてくださる方のの姿勢に触れるというか
いろいろなものを吸収させていただいているような気がします。
そういう時間はとても貴重だなと思います。

手作り石けんにご興味のある方は
ぜひ手に取って見てくださいね。





クヌルプ

この前のブログ「おんぶ」でとりあげたテーマが
ヘッセの『クヌルプ』という短編に同じようなことが書かれていました。
ひとつのテーマがどんどんシンクロしていきます。
謎解きのようで面白いです。


先週の個人セッションのお客様で
交通事故に遭われた方がいらっしゃいました。
車が大破するようなすごい事故にも関わらず
ご本人はほとんど軽症だったそうです。

リーディングしてみると
阿修羅像がぴったり寄り添っていたので
ちょっとビックリしたのですが…
「この人は危なっかしいから」と
6本の手で護っているように見えました(笑)
事故は避けられなかったようですが、被害は最小で
本当に護られているんだなって思いました。
このことは、私にも必要なメッセージでした。
以下は『クヌルプ』より転載します。




「いいかい」と神様は言った。

「私が必要としたのは

あるがままのおまえにほかならないのだ。

わたしの名においておまえはさすらった。

そして定住している人々のもとに

少しばかりの自由へのせつないあこがれを

繰り返し持ちこまねばならなかった。

わたしの名においておまえは愚かなまねをし、ひとに笑われた。

だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。

おまえはほんとにわたしの子ども、わたしの兄弟、わたしの一片なのだ。

わたしがおまえといっしょに体験しなかったようなものは何ひとつ

おまえは味わいもしなければ

苦しみもしなかったのだ。」

「そうです」とクヌルプは言い、重い頭でうなずいた。

「そうです、そのとおりです。

ほんとうは私はいつもそれを知っていたのです」



                 『クヌルプ』 ヘルマン・ヘッセ

いやげ物


みやげもの
いやげもの


私はいやげ物にはずいぶん不寛容でした。
この本はいやげ物を全国から
はたまたハワイにまで行って
集めて、カテゴリー分けして
それぞれにコメントして
ストーリーもつけています。


いやー、これを見てなんか目からウロコでした!
今までこういうものには心を閉ざしていたけど
じっくり見ていくと
思わぬ視点も発見できたりで…
侮れないなと思いました。


いやげ物が好きになった
というわけではないんだけど
過剰反応は癒されました(笑)


たまにはスパイス的にとか
使い道も考えてみるのもいいのかも…






いやげ物の世界にも
アーキタイプというか
共通のシンボル的なものがあるんですね。


心の奥深くにあるものだったり
説話的なものだったり
かわいい系だったり
エロだったり


なんでこんなのつくったんだろうというものや
ありえない、予想のつかないの組み合わせもありで
自由すぎる!(笑)


どうしてもいやなものもあるんだけど
こころのひっかかりとしてみれば面白くて
浄化グッズとして使えるかな(笑)



これなんか、すごいよね!
ひょうたん宇宙人襲来!
船団になっていますね。
この背景、すごいな
センスが光る。


見ていると滞りが解消されますよ。
人によっては(笑)
こうあるべきみたいなのが
破壊されていきます。
いやげ物も
使いかた次第ですね。


これ、けっこう応用が利いて
日常のいやげなことがらなども
使えそうです。




度肝を抜かれる

先日のピダハンの本を読んでいて、
野生の力とか、過保護とか、死生観…
いろいろ考えさせられる材料が満載です。


ピダハンはどんなことにも笑う。
自分の不幸も笑いの種にする。
風雨で小屋が吹き飛ばされると、
当の持ち主が誰よりも大きな声で笑う、
魚がたくさん獲れても笑い、
全然穫れなくても笑う。
腹いっぱいでも笑い、
空腹でも笑う。


おおらかで楽しくて
適応能力というのか
どんな状況でも切り抜けていったり
たとえそうならなかったとしても
ちっとも困ることがない。
なんかちょっとうらやましいです。



そういう面もあるのですが、びっくりする面も。
たとえば、子どもへの接しかた…


よちよち歩きの子どもが
おぼつかない足取りで焚き火に近づいているのをみても
火から遠ざけようとはしなかったり
それでやけどをしたとしても
子どもを激しくしかりはしても
罪悪感にかられたり
母親の不注意を責められることもないのです。


そこでは痛い思いをして学んでいくということが徹底しています。
そうでないとサバイバルできないからだけど
日本ではペットでさえ、もっと過保護に暮らしているから
こういうのを読むとハッとしますね。



このようにして育てられた子どもは
いたって肝の据わった
それでいて柔軟な大人になり
他人が自分たちに義理を感じるいわれがあるとは
これっぽっちも考えないそうです。
徹底した自己責任。
グラウンディングってそういうことなのかも。


赤ちゃんを産んだ母親が産後の肥立ちが悪くて
死んでしまったとき
宣教師が世話をすることに反対はしなかったのですが
赤ちゃんは死ぬことがみんなわかっていたので
彼が目を離したすきに
赤ちゃんに強いお酒を飲ませて死なせたということが書かれていて、
これもかなり衝撃的でした。


ピダハンの立場からすれば最善と思われる
始末のつけかたのようですが
生命や死、病に関する考え方は、まったく根本的に違います。


医者も居ないジャングルの中で
丈夫じゃないと死んでしまうことを知っているし
たくさんの死者や死にかけた人を身近に見ていると
死相が浮かんでいることも見えていて
間違いなく死んでいくとわかっている場合
苦しみを引き延ばすことをしないそうです。


読んで初めて知ったことですが
度肝を抜かれるというか
こういう死生観
現在の自分の生きかた、暮らしかたの
こまごまとした繊細さとか
パーンと砕け散りますね(笑)








最近、気になっている本



以前テレビで見たことがあってとても興味が湧いたので
読み始めた本です。


ピダハンは、アマゾンの奥地に住む少数先住民です。
作者は最初キリスト教を伝導するために入り込んだのですが、
30年間関わるうちにその宗教まで捨ててしまうくらい
感化されたようです。


まだちょっとしか読んでいないのですが、とても面白くて
なんか、子どもの頃のものの見かたや考え方に
近いような気がしました。


たとえば、彼らには右と左の概念がありません。
位置を示すには川が基準になっていたりしますが
そういえば私も子どもの頃、山がどこにあるかで
位置を確認していたことを思い出しました。


南には山があって、
北には海がある


というのが私のふるさとの景観というか
世界のような感じだったんでしょうね。
どこにいても揺るがない世界。


一方、右、左は自分を基準として見ているので
自分が南を向いていると右は西になり
北を向いていると右が東になります。


これが子どもの頃に混乱していた原因でしたね。
え、なんでコロコロ変わるんだろう?って(笑)
子どもなので自分という概念があまりなかったというのもあって
右、左を考えるときに
自分軸にスイッチを切り替えないといけないので
混乱していたのかもしれません。



それから、ピダハンでは、概念的な色を表す言葉もないそうです。
たとえば「赤」という概念がなくて
「血の色」とか、そういう使い方をするようです。
また数という概念もないようです。
そもそもカテゴリーというものが存在しないようですね。



また、ピダハンは、現在形で話すそうです。
過去に対する心配も未来に対する不安もなく。
彼らは常に今に生きていて、幸せそうに見えると
テレビのナレーションで語られていました。
確かに彼らは幸せそうに見えるし
人間も犬も鶏も同じ目線のように見えました。


それから社会や人間関係を維持する言葉もないそうです。
たとえば挨拶とか感謝の意を伝えるような言葉です。

こんにちは
さようなら
ごめんなさい
ありがとう


その代わりに「手伝いをする」「品物を与える」のように
行為の形で示すそうです。
へぇ〜 面白い。
読んでいてとハッとすることが多いです。






あたまの底のさびしい歌

今日は東京も雪が降りましたが、一時でした。
タイトルに引かれて読んでみました。
宮沢賢治の手紙からの抜粋。
今日の気分かな…




僅かばかりの才能とか、器量とか、

身分とか財産とかいうものが

何かじぶんのからだについたものででもあるかと思い、

じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲けり、

いまにどこからか

じぶんを所謂社会の高みへ

引き上げに来るものがあるように思い、

空想をのみ生活して

却って完全な現在の生活をば味わうこともせず、

幾年かが空しく過ぎて

漸くじぶんの築いていた蜃気楼の消えるのをみては、

ただもう人を怒り世間を憤り

従って師友を失い憂病を得るといったような

順序です。





どうか今のご生活を大切にお護り下さい。



上のそらでなしに、



しっかり落ち着いて、




一時の感激や興奮を避け、




楽しめるものは楽しみ、



苦しまなければないらないものは苦しんで




生きて行きましょう。







生かされて



先日掃除をしていて、ふと本棚と見て目に留まったのがこの本です。数年前に読んでいましたが、また読み返してみたくなって、いっきに読んでしまいました。

この物語は実際に起こった出来事です。1994年に起こったルワンダ虐殺で、100日間で100万人のツチ族がフツ族に殺されました。この本を書いた女性は、フツ族の牧師の家の狭いトイレの中に、他の7人のツチ族の女性とともに90日あまり身を隠していました。

同じ時代に生きている人に起こったできごとだということが、まずとても衝撃的でした。親友や隣人として接していた人達が、切り捨て、殺戮する側に急変する衝撃と恐怖。どの人の心のなかにある得体の知れない闇の部分が出てくる状況が、どのようにして起こるのか…。自分が殺されるか、相手を殺すかの選択をさせられることや、ラジオなどの公共放送が狂気を煽動していく様子など…読むのにも気力が必要です。また、狭いトイレの中で、8人が飢えと戦いながら、息を殺して過ごすことなど、想像するだけでも息苦しくなってしまいます。

ツチ族の女性たちを匿ったフツ族の牧師についてもいろいろ考えさせられました。女性は匿っても男性である彼女の弟は面倒見切れないと、外に出すしかない状況のなかで、弟は結局殺されてしまいました。牧師本人も命がけの中で匿っているために、どういう選択をするのかを迫られて、苦悩したり、保身を考えたり…実際の話だけにとてもリアルに迫ってきます。自分だったらどうするだろうかと考えさせられたし、この人のやったことすら自分にはできるのだろうかと思ったり…。この人なりには精一杯のことをやったのだけど、きっと心の中は苦しかっただろうな…とか、いろいろ考えさせられました。

そして、こういう悲惨な状況を克服した主人公の生き抜く力もすごいなと思いました。信仰がなかったら、きっと絶望して生き残れなかったでしょう。そのなかで、まさに”生かされる”という経験をしたこの主人公の、そこに至る経緯が描かれています。許すことは、彼女にとっても解放だったのでしょう。乗り越える力というのは、この女性のように現状のレベルから超えないとそこに至ることはできないのでしょうね。

解放されたあとでこの女性は実際に彼女の両親を殺した犯人に会って、「許します」という言葉をかけています。『許ししか私には彼に与えるものはないのです」

以下は抜粋です。

***************************************************************

 

 ほんの少しでも、祈ることをやめれば、悪魔の疑いと自分自身への哀れみという二枚の刃を持ったナイフが私を襲います。祈りは私を守るよろいになりました。私は、しっかりとそれを心に着けたのです。



 ある夜、この家のすぐ近くで悲鳴が聞こえました。続いて、赤ん坊が泣き叫びました。殺人者達が、きっと母親を殺したのにちがいありません。そして、赤ん坊を道路に放り出したのでしょう。そのまま死んでしまうように。
 
 その子は一晩中泣いていましたが、朝には、ほとんど聴こえなくなりました。近くで犬たちがうなっています。どんなふうに赤ん坊の命が終わるかと思うとぞっとしました。
 
 私は、神様にその子の無垢な魂を受入れて下さるようにと祈り、それから聞きました。どうして、罪のない子にこんなことが出来る人たちを許すことが出来るのでしょう。
 
 その時、私は声を聞きました。まるで同じ部屋にいるかのようにはっきりと。
 
 あなたたちは、皆、私の子どもたちです。あの赤ん坊は、今、私と一緒にいます。
 
 それは、短く簡単な言葉でした。
  
 でも、それは、明らかに、私が数日もがきながら探し求めていた答えでした。殺人者たちは子どもたちとおなじなのです。


 
 そして、私は、子どもと許すことならできるでしょう。
 簡単ではありません。とくに、その子どもが私と殺そうとしているのですから。
 
 神様の目には、殺人者たちさえ、彼の家族、愛と許しを受ける対象なのです。私は、神の子どもたちを愛する気がないのならば、神の私への愛も期待することは出来ないとわかったのです。その時です。私は殺人者のためにはじめて祈りました。彼らの罪をお許しくださいと。

 
 その日、私は殺人者を許すために、一歩を踏み出すことが出来たのです。怒りは、私の中から消えていきました。

 私は神様に心を明け渡したのです。そして、神様は無限の愛でそれに触れてくれたのです。
 
 はじめて、私は殺人者たちに哀れみを感じました。私は、神様に彼らの罪を許し、彼らの魂を神様の美しい光の方向へ向けて下さいとお願いしました。その夜、私は、はっきりと意識を持ち、清らかな心で祈りました。この場所に着いてからはじめて、私は平安のうちに眠ることが出来ました。

 私は、心の小さな隅っこに私だけの場所を見つけ、目が覚めるや否や、そこに入り込み、眠りにつくまでそこにいました。そこは、私の聖なる庭でした。そこでは、神様と話すことが出来、彼の言葉によって、瞑想ができました。瞑想をしていると、進行の核に降れ、魂が豊かに満ちてくるのでした。


 周辺に恐怖が渦を巻いている時に、私は、訪れるたびにより暖かく、よりすばらしくなる私だけの場所をこの世に見出したのです。私はその特別の場所に入り、ただただ祈り続けました。


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