自由にやり方を見つける


11月になりました。
今年も残すところ2ヶ月を切りました。
早いですね!

11月だけど関東地方はとっても温かくて、半袖でもいいくらいです。
過ごしやすいですけどね…
今年は暖冬なのでしょうか?

それでも、木の実はほとんど落ちて、
公園の柿の実もカラスのお腹に入って残りが少なくなってきました。
柿の葉が紅葉してきて美しいです。


こちらは歩いていて見かけた山茶花の花。
もう咲いているんだ!
いつも11月の暮れぐらいから咲いていたような気がするのに…
寒い時期になると、公園の中も寂しくなってくるのですが、
山茶花やお茶の花、椿の花が次々に咲いてくると、
毎日花を見るのが楽しみになります。


こちらは、うちの庭に植えた野菜の種です。
バジル、ルッコラ、パクチー、ラディッシュ、春菊をばら撒いたので、
どの芽が出ているのかは、まだわかりません。

種団子のお花畑のように、いろんな野菜が混じっていてもいいんじゃないかなと思っています。
そのうち間引くし。

いろいろとルールみたいなものが、だんだん緩くなってきたこの頃。
ガーデニングとかも、もっともっと自由でいいと思います。

*****

『天才たちの日課クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』

この本が好きで、ときどき日めくりのように読んでいます。
今日開いたら「ロリータ」で有名なウラジミール・ナボコフのページでした。

面白かったのは、ナボコフは文章をインデックスカードに書いて、ファイルボックスに保存していたそうです。
この作業は何ヶ月間も続いたそうです。
いつも好きなところから書いて、貯めておいて、小説の全体像が描けてから、原稿を書き始めたそうです。

私にとっては、これはすごい参考になりました。いつも全体のフレームのようなものができていないと、なかなか文章が書けないのですが、それよりも断片をどんどん書いていって、編集すれば、むしろ書こうと思っているもの以上の組み合わせができるかもしれないなと思うと、とても楽しくなりました。

頭の中にスラスラと言葉が溢れてきて、それを書いていけばいいという人もいますが、私はまったくそういうことができずに、断片的なイメージだけはどんどん出てくるタイプなのです。ちょっといいかも!

こういうやり方というものも、やり込んで行かないと出てこないものですから、やっぱり自分のやり方を見つけるためには、いろいろ試行錯誤も必要で、その中から最適な方法が見つかるものです。

最近は何をするにも、いろんなテンプレとかフレームが用意されているから、その中でカスタマイズすればいい時代になって、昔のように一から作り上げなくていい時代になってきているので、どの人にも選択肢や自由度が広がってきたなと思います。


抜粋した文章:
ナボコフはロシア生まれの小説家で、その執筆の方法は奇妙なことでよく知られていた。それは1950年から始めた方法で、最初の草稿を罫線の入ったインデックスカードに鉛筆で描き、それを細長いファイルボックスに入れていくのだ。これについて本人はこう説明している。自分は小説の全体像を描いてから原稿を書きはじめる、この方法だと、順番を気にせずに好きなところから書いていくことができるし、カードを並べかえれば、素早く段落や章や本全体を作りかえることができる。

何ヶ月もこの作業を続けたあと、ようやくカードの束を妻のヴェラに渡して、タイプ原稿に仕上げてもらい、その後何度かの修正を加えた。










思考とは その2

今日は夏至です。
国立天文台によると、すべての惑星が勢ぞろいするのは、
6月中旬から下旬の4時ごろから明け方にかけてだそうです。

東の地平線に向かって、
土星、海王星、木星、火星、天王星、金星、水星を
同じ天球で見ることができるそう。

19日以降は月も加わり、
日の出の1時間まえぐらいから日の出にかけてが
観察のタイミングだそうです。

なお肉眼で見える明るさ(等級)は
水星、金星、火星、木星、土星の5つ。

天体のエネルギーが集中しているこの時期は、
根本から変わることができるパワーに満ちています。

節目の時期というのは、
もう必要のなくなった思考パターンや感情も吹き出してきます。
でもそれは、手放すのにはいい機会なのです。

浮かび上がってきたものを、
再確認、再編集して、
アップデートしていきましょう。


*****

さて、今日もこちらの本からの抜粋です。
この本のプロローグ、エピローグだけでも、
とても含蓄のある文章で、
いろいろ考えさせられます。
『賢さをつくる 頭はよくなる。よくなりたければ。』 谷川祐基 著





一見まとまりのない雑多なピースも、
適切な場所に置かれることで、
そして他のピースとつながることで、
大きく美しい一枚の絵を描き出す。
バラバラのピースが全体を表していく過程は、
苦労がありつつも楽しい。



これはジグソーパズルのことではない。
「思考」のことでもない。


一人一人の人間の人生も、
適切な場所と繋がるべき人々を
探求する過程なのかもしれない。


大きく美しい一つの絵を描き出すための旅。

しかし人は、居場所を探して一つに繋がり合おうとする一方で、
個性的で唯一の特別な存在でありたいとも願い、
それを表現する。
かけがいのない、この宇宙でたった一人の存在なのだから。

なんども全体への回帰と個別への表現をくり返し、
ヒトは生きている。
そのくり返しが、
宇宙に調和と多様性をもたらしているのだろう。


あなたの次の一歩は、どちらに向けるのだろうか?




一つのピースが一つの考えや記憶だとしたら、
それはつながらないと散らかったゴミ屋敷のような状態で、
必要なピースはどこあるかさえわかりません。


バラバラなものは、全体としての概念を持たず、
「つながり」を持ってこそ、一つの絵になります。
考えるということは、一つ一つのピースをつなぎ合わせる作業です。


食材があっても、レシピがなければ料理にはならないように、
組み合わせでどんなものができるか、
試行錯誤も含めて
楽しみたいですね。




そして、きっと
適切な配置というのは、
どの瞬間にも見出せるのだと思います。






思考とは その1

去年、長野でのワークショップの際に、
テーマにした内容は、こちらの本からヒントを得ました。

『賢さをつくる 頭はよくなる。よくなりたければ。』 谷川祐基 著

この本は思考というものについて
とてもわかりやすく書かれていて、
具体と抽象
右脳と左脳、
チャンクアップ、チャンクダウン
インプットとアウトプットなどの
二極を交互に行き交うことで、
理解が深まることについて書かれています。


思考というものについて、
まずプロローグに掲載されている下記の文章が素晴らしいです。
ぜひ読んでいただきたいと思います。




この絵は、ダミアン・ハーストの桜です。
ジグソーパズルのようなピースが集まって、
桜の木のように見えます。

このテーマにちょっと似ているかなと思いました。

*****

ここからは本の引用です。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

9歳の誕生日に、
クリスチャン・ラッセンのジグソーパズルを買ってもらった。

小学生の男の子としては、少し珍しい趣味だったかもしれない。
 
彼の絵を、それほど気に入ったわけでもなかった。
確かにイルカやサンゴ礁の絵は美しかったし、
後に自分がマリンスポーツをはじめて、
彼の移住先であるハワイのマウイ島に
通うことにやったのには縁を感じるが。

考えてみれば生産性のない遊びである。
きれいな絵を細かく何百ピースにもカットし、
それをもう一度組み立て直すだけだ。
苦労の末完成しても、元の絵より美しくなることはない。

それでも組み上げる過程が楽しかった。

始まりは、山になったピースと何もない空白だけである。
そのうち赤いピースが組み合わさり、
イソギンチャクの一部になる。
最初は太陽の一部だと思っていた白いピースは、
実はイルカの背中だと判明した。

そのイルカとイソギンチャクは別々の場所で成長していたが、
ついに連結される時が来る。
しかし、それらをつなぐピースは、
意外にも青い海ではなく黄色のチョウチョウウオだった。

こうして、雑多なピースの山は、美しく壮大な海の世界を描き出していく。
その過程が楽しかった。


「それが、思考というやつだよ」

いまの私なら、当時の私にそう声をかけてあげるだろう。
そして、次のように付け足す。

「だけど、それで半分だ。」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*****
続きはまた明日。

明日は夏至ですね。
いろいろと思考を整理して
スッキリして迎えたいです。



身体に意識を向ける

最近読みだして、いいなと思った本


これがとても気に入っていて
暇なときにパラパラとめくって、
本の通りに身体を動かしてみています。


5月からフェルデンクライスを受講するようになって
身体の感性を上げていくことや
微細な動きがどう影響を及ぼすか
良い動き方などを
実際に試してみているうちに
身体の緊張がどんどん取れていって
とても楽になってきました。


その中で、たとえば足を動かす動作をしているときに

「その動きはどこから始まっていますか?」

という問いがあるのですが、
なんとなく鳩尾(みぞおち)のあたりかなと思っていたら、
この本でやっぱり!と納得しました。



大腰筋の始まりが鳩尾の辺りだったのですね。
そこを足のつけ根だと意識して
歩いてみると股関節の余分な力が抜けて
すたすたと歩けました。


本によると、一歩の幅が大きくなったり
スピードも速くなったりするそうです。
今度、外で試してみようと思いました。


フェルデンクライスをやっていると
いかに緊張している部分が多いのかに気がついたり、
緊張を緩めると機能も上がってくるのがわかります。


それに気がついて、
実際にどう使っていくか、
いろんな本を読んでいくうちに
実は理解していなかった
骨格の構造とか筋肉とか、
いっぱい出てきます。

こうやって少しずつですが、
理解が深まってイメージができるようになると
とても楽チンな身体になってきます。


たとえば腕を動かすときに
肩甲骨がスライドするのはわかるのですが、
鎖骨がどう関連して動いているのか、
そのとき肺はどうなっているのか、
すべてつながっているのですね…


実際に鎖骨がどう動くか
鎖骨の上に手を当てて感じてみたりしています。
腕を動かしたり
呼吸でどのように動いているか
普段はまったく意識していなかったのに、
けっこう動いているものなのですね。



なんとなく感覚では理解できていたけれど
実際の筋肉の位置とか骨格の知識とか
内臓とかの知識とか、
そういうものが感覚とつながってくると
理解がいっそう深まって楽しくなりました。




こちらは、フェルデンクライスの本です。
10年くらい前に何冊か持っていたけれど、
全然読めなかったので、処分しました。

今、定期的にやっていると
本が読めるようになってきました。
こちらは古本を購入しました。

といっても、1日に何度か
パラパラとめくって
目についたことだけ、
実践してみたり、メモったりしている程度ですが。


私の場合、実践が伴わないと
本当にわからないので、
なんどもパラパラしながら、
実践しています。


今日、ぱらっとめくったところは、

「左右対称は表面的なもので、人間には存在しません。」

心臓はやや左寄りにありますが、
いちばん大きい内臓は肝臓で、
右側に位置しています。

そのために重い方を軸にして動きがちになるそうです。
なるほど…










生身の身体を通して


枝ぶりがすごくかっこいい木です。

今日も風が冷たかったけど良いお天気でした。
いつものように公園を走りました。
最近は歩くことなく走れています。
面白いもので、速く走ろうとしなくなってから
逆に走れるようになりました(笑)




走るようになってから、この本を読み返したくなりました。
村上春樹さんの本は、あまり読んではいないのですが、
この本は大好きで何回か読みました。

この本を書いた頃の村上さんと
今の私が年齢的にも重なるくらいなので
より響いてくるんだろうと思います。
以下は本の中からの抜粋です。




自慢するわけではないが、
(だれがそんなことをじまんできるだろう?)、
僕はそれほど頭の良い人間ではない。

生身の体を通してしか、
手に触ることのできる材料を通してしか、
ものごとを明確に認識することのできない人間である。

何をするにせよ、
いったん目に見えるかたちに換えて、
それで初めて納得できる。

インテリジェントというよりは、
むしろフィジカルな成り立ちかたをしている人間なのだ。

もちろん少しくらいのインテリジェンスはある。
たぶん、あると思う。
そういうのがまったくないと、
いくらなんでも小説は書けないだろう。

しかし僕は頭の中で純粋な理論や
理屈を組み立てて生きていくタイプではない。
思弁を燃焼にして前に進んで行くタイプでもない。

それよりは身体に現実的な負荷を与え、
筋肉に呻き声を(ある場合には悲鳴を)上げさせることによって、
理解度のメモリを具体的に高めていって、
ようやく「腑に落ちる」タイプである。

いうまでもなく、そういう段階をひとつひとつ踏んでいると、
ものごとの月論が出るまでに時間がかかる。
手間もかかる。

ときには時間がかかりすぎて、
やっと腑に落ちたときにはもう手遅れだったという場合も出てくる。

でも仕方ない。
それがそもそもの僕という人間なのだから。






私は彫金もやっているのですが、
最初のころ先生に、
「藤井さんは失敗して学ぶタイプだね」
と言われました。


他の人には丁寧に説明しているのに
私には考えさせるためか、
説明が少なかったように、その頃は感じていて、
最初の頃はそれが不満でした。


他の人のように手取り足取り教えて欲しいのに…
と思っていましたが、
先生はその人にあった教えかたをしていて
私には実際にやってみて覚えるような教えかたでした。


今はそんなことも感じないくらいに慣れてしまったのですが、
当初は、火を扱ったりする工程も多いので、やっぱり不安でした。
不安に思っていることが
あんまり外に出ていなかったのかもしれないですが、
それでも内心は不安だったな。
今は懐かしく思い出します(笑)


新しいことや初めてのことをするときは
いつもこんな気持ちになるんだけど
私の場合は、そうやって体感していきながら
覚えていったり、理解が深まるようです。
だからゆっくり時間をかけていこうと思います。




本を読んで考えたこと



古本屋でタイトルに惹かれて読んでみました。
ちょっと「一般受け」狙いな感じの切り口ですが
この本から何かを得るというよりは
カフカの言葉にとても惹かれました。
その中から一部を抜粋します。



将来に向かって歩くことは、ぼくにはできません。
将来に向かってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。

                ーフェリーツェへの手紙ー




これは恋人に向けた手紙の一節です。
ここまで書けるかな…(笑)
ここまで「正直」に書けるというのが、すごいなと思いました。
表現する時に、自分を曲げられない人だったのでしょう。


相手に、というよりは、自分に向けての言葉のように感じました。
相手と共有するというのは二の次のような感じです(笑)
それでもこの女性とは2回婚約して婚約破棄して
別の女性とも婚約して破棄していたそうです。


だから、どんな表現をしようとも
その人にとって好ましいならば
大丈夫ということなんだなって、妙に納得しました(笑)


表面上、上手くいかせることって
自分の中に薄い膜のようなものを作っていくような気がします。
目にうろこが1枚ずつ貼りついていくような。
自分の中にモヤモヤしたものが溜まっていって
プレッシャーになっていくんですよね、私の場合。


カフカの言葉は、とても深いところに届くし
自分の中にある何かを浮かび上がらせてくれます。
自分に対する「問い」になっているから
自分の中の意味とか、価値を確認する機会になるかなと思いました。




生きることは、たえずわき道にそれていくことだ。
本当はどこに向かうはずだったのか、
振り返ってみることさえ許されない。
         
              ー断片ー




そうそう!そのとおりです!!!
このことで今までずっと自分を責めていたんだけど
ようやく、「仕方ないよね」って思えるようになったこの頃です。


人生の目的とか、方向性とか、
定まっていても、定まっていなくても
どちらでもいいのかもしれません。



ずいぶん遠くまで歩きました。
五時間ほど、ひとりで。
それでも孤独さが足りない。
全く人通りのない谷間なのですが、
それでもさびしさが足りない。

          ーフェリーツェへの手紙ー




一人で過ごす時間の中でしか生まれないものがあります。
そういう時間を大事にしたいなと思います。
何も作り出していないように見えても
意味のない時間に思えても。



ぼくの仕事が長くかかること、
またその特別の性質からして、
文学では食べてゆけないでしょう。

          ー日記ー




だからといって、やめないで
文学と向き合う力を持っているところが
むしろ弱さよりも強さを感じました。


目先の利とか、戦略とか、
生活していくには大事なものだとは思います。
でもそこばかりに目を向けるよりは
もっと広い視野を持ったときに見えてくるものを
大切にしたいなと思いました。







クヌルプ

この前のブログ「おんぶ」でとりあげたテーマが
ヘッセの『クヌルプ』という短編に同じようなことが書かれていました。
ひとつのテーマがどんどんシンクロしていきます。
謎解きのようで面白いです。


先週の個人セッションのお客様で
交通事故に遭われた方がいらっしゃいました。
車が大破するようなすごい事故にも関わらず
ご本人はほとんど軽症だったそうです。

リーディングしてみると
阿修羅像がぴったり寄り添っていたので
ちょっとビックリしたのですが…
「この人は危なっかしいから」と
6本の手で護っているように見えました(笑)
事故は避けられなかったようですが、被害は最小で
本当に護られているんだなって思いました。
このことは、私にも必要なメッセージでした。
以下は『クヌルプ』より転載します。




「いいかい」と神様は言った。

「私が必要としたのは

あるがままのおまえにほかならないのだ。

わたしの名においておまえはさすらった。

そして定住している人々のもとに

少しばかりの自由へのせつないあこがれを

繰り返し持ちこまねばならなかった。

わたしの名においておまえは愚かなまねをし、ひとに笑われた。

だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。

おまえはほんとにわたしの子ども、わたしの兄弟、わたしの一片なのだ。

わたしがおまえといっしょに体験しなかったようなものは何ひとつ

おまえは味わいもしなければ

苦しみもしなかったのだ。」

「そうです」とクヌルプは言い、重い頭でうなずいた。

「そうです、そのとおりです。

ほんとうは私はいつもそれを知っていたのです」



                 『クヌルプ』 ヘルマン・ヘッセ

いやげ物


みやげもの
いやげもの


私はいやげ物にはずいぶん不寛容でした。
この本はいやげ物を全国から
はたまたハワイにまで行って
集めて、カテゴリー分けして
それぞれにコメントして
ストーリーもつけています。


いやー、これを見てなんか目からウロコでした!
今までこういうものには心を閉ざしていたけど
じっくり見ていくと
思わぬ視点も発見できたりで…
侮れないなと思いました。


いやげ物が好きになった
というわけではないんだけど
過剰反応は癒されました(笑)


たまにはスパイス的にとか
使い道も考えてみるのもいいのかも…






いやげ物の世界にも
アーキタイプというか
共通のシンボル的なものがあるんですね。


心の奥深くにあるものだったり
説話的なものだったり
かわいい系だったり
エロだったり


なんでこんなのつくったんだろうというものや
ありえない、予想のつかないの組み合わせもありで
自由すぎる!(笑)


どうしてもいやなものもあるんだけど
こころのひっかかりとしてみれば面白くて
浄化グッズとして使えるかな(笑)



これなんか、すごいよね!
ひょうたん宇宙人襲来!
船団になっていますね。
この背景、すごいな
センスが光る。


見ていると滞りが解消されますよ。
人によっては(笑)
こうあるべきみたいなのが
破壊されていきます。
いやげ物も
使いかた次第ですね。


これ、けっこう応用が利いて
日常のいやげなことがらなども
使えそうです。




度肝を抜かれる

先日のピダハンの本を読んでいて、
野生の力とか、過保護とか、死生観…
いろいろ考えさせられる材料が満載です。


ピダハンはどんなことにも笑う。
自分の不幸も笑いの種にする。
風雨で小屋が吹き飛ばされると、
当の持ち主が誰よりも大きな声で笑う、
魚がたくさん獲れても笑い、
全然穫れなくても笑う。
腹いっぱいでも笑い、
空腹でも笑う。


おおらかで楽しくて
適応能力というのか
どんな状況でも切り抜けていったり
たとえそうならなかったとしても
ちっとも困ることがない。
なんかちょっとうらやましいです。



そういう面もあるのですが、びっくりする面も。
たとえば、子どもへの接しかた…


よちよち歩きの子どもが
おぼつかない足取りで焚き火に近づいているのをみても
火から遠ざけようとはしなかったり
それでやけどをしたとしても
子どもを激しくしかりはしても
罪悪感にかられたり
母親の不注意を責められることもないのです。


そこでは痛い思いをして学んでいくということが徹底しています。
そうでないとサバイバルできないからだけど
日本ではペットでさえ、もっと過保護に暮らしているから
こういうのを読むとハッとしますね。



このようにして育てられた子どもは
いたって肝の据わった
それでいて柔軟な大人になり
他人が自分たちに義理を感じるいわれがあるとは
これっぽっちも考えないそうです。
徹底した自己責任。
グラウンディングってそういうことなのかも。


赤ちゃんを産んだ母親が産後の肥立ちが悪くて
死んでしまったとき
宣教師が世話をすることに反対はしなかったのですが
赤ちゃんは死ぬことがみんなわかっていたので
彼が目を離したすきに
赤ちゃんに強いお酒を飲ませて死なせたということが書かれていて、
これもかなり衝撃的でした。


ピダハンの立場からすれば最善と思われる
始末のつけかたのようですが
生命や死、病に関する考え方は、まったく根本的に違います。


医者も居ないジャングルの中で
丈夫じゃないと死んでしまうことを知っているし
たくさんの死者や死にかけた人を身近に見ていると
死相が浮かんでいることも見えていて
間違いなく死んでいくとわかっている場合
苦しみを引き延ばすことをしないそうです。


読んで初めて知ったことですが
度肝を抜かれるというか
こういう死生観
現在の自分の生きかた、暮らしかたの
こまごまとした繊細さとか
パーンと砕け散りますね(笑)








最近、気になっている本



以前テレビで見たことがあってとても興味が湧いたので
読み始めた本です。


ピダハンは、アマゾンの奥地に住む少数先住民です。
作者は最初キリスト教を伝導するために入り込んだのですが、
30年間関わるうちにその宗教まで捨ててしまうくらい
感化されたようです。


まだちょっとしか読んでいないのですが、とても面白くて
なんか、子どもの頃のものの見かたや考え方に
近いような気がしました。


たとえば、彼らには右と左の概念がありません。
位置を示すには川が基準になっていたりしますが
そういえば私も子どもの頃、山がどこにあるかで
位置を確認していたことを思い出しました。


南には山があって、
北には海がある


というのが私のふるさとの景観というか
世界のような感じだったんでしょうね。
どこにいても揺るがない世界。


一方、右、左は自分を基準として見ているので
自分が南を向いていると右は西になり
北を向いていると右が東になります。


これが子どもの頃に混乱していた原因でしたね。
え、なんでコロコロ変わるんだろう?って(笑)
子どもなので自分という概念があまりなかったというのもあって
右、左を考えるときに
自分軸にスイッチを切り替えないといけないので
混乱していたのかもしれません。



それから、ピダハンでは、概念的な色を表す言葉もないそうです。
たとえば「赤」という概念がなくて
「血の色」とか、そういう使い方をするようです。
また数という概念もないようです。
そもそもカテゴリーというものが存在しないようですね。



また、ピダハンは、現在形で話すそうです。
過去に対する心配も未来に対する不安もなく。
彼らは常に今に生きていて、幸せそうに見えると
テレビのナレーションで語られていました。
確かに彼らは幸せそうに見えるし
人間も犬も鶏も同じ目線のように見えました。


それから社会や人間関係を維持する言葉もないそうです。
たとえば挨拶とか感謝の意を伝えるような言葉です。

こんにちは
さようなら
ごめんなさい
ありがとう


その代わりに「手伝いをする」「品物を与える」のように
行為の形で示すそうです。
へぇ〜 面白い。
読んでいてとハッとすることが多いです。







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