無理をしない

お正月休みに大山阿夫利神社に参拝しました。
下社から奥の院まで1時間半と書いていたので、登ってみました。
道は整備されているのですが、案外きつい上りが続きます。
半分より少し上のあたりの休憩所で休んでいたら、
日本100名山を登ったという、強者の年配の方々に会い、
「この時間で頂上につけばすぐに暗くなるから、やめた方がいいよ」と。
それであっさりとやめて下山しました。

以前に白山に登ったときも結構きつかったのです。
夜明け前に山頂を目指してご来光を仰ぎ、
汗をかいて風邪を引いたのが、1ヶ月くらい咳となって続いたので、
頂上を目指すほどの気持ちになれませんでした。
その日は鶴巻温泉に入って帰りました。

次の日に、身体のあちこちが不調で、
身体のフシブシだけではなく、いろいろ気の流れが悪くなってしまい
お正月だったので、一日ゴロゴロしていました。

ゴロゴロしながら無意識にエネルギー調整をしている自分に気がついて、
ハッとしました。
なんでこんなことしてるんだろう…
エネルギーが滞ったって、2〜3日もすれば治るのに…
無意識に「不調は悪いもの、直さないといけない」と考えていました。

ちゃんと期が熟せば変化していけるのを、
自分がコントロールして少しでも早く変化したいという思いが、
今この瞬間を味わうことを阻害しています。

無理をやめたら、
自分の中から湧き上がるまで待ったら、
迷いがなくなるのに…

今年はそのようにしようと思います。



もう一つの元伊勢

元伊勢内宮皇大神社

もう一つの元伊勢といわれているところがあります。ここは、天照大神をお祭りしていて、内宮と呼ばれています。もう少し離れたところには、豊受大神をお祭りする外宮もあります。聞いてみたのですが、籠神社とは関係がないようです。ここは、知る人ぞ知るというような、隠れているような感じがします。行ってみると立派な大きな神社なのですが、山の中のこんなところにいったいどうしてこんな神社があるの!?


なんでも、夏至のときに伊勢から昇る太陽がまっすぐにこの元伊勢のご神体と言われる日室ヶ嶽のピラミッドのような山頂へ沈むらしいです。


この山が日室ヶ嶽です。ご神体というのは、どの人も感じると思います。「一願さん」と呼ばれていて、この遥拝所から日室ヶ嶽(天照大神)に一つのことをお祈りすると、成就すると言われています。



日室ヶ嶽遥拝所を過ぎて、宮川(五十鈴川)に沿って歩くと、川底へ下る階段があり、天岩戸神社があります。こんなところに!


お社です。写真でも見えますが、鎖があって、この鎖をつたってお社の近くまで行けるようですが、この日は雪が降っていて、滑りそうで、登る気にはなりませんでした。こんなところにお社を建てるのも、大変だったでしょうね…


お社の下の御座石です。夏だったら、ちょっと入ってみたくなりそうなところです。きっと禊ぎをするところなのではないかなと思います。このあたりは巨岩が多く、「産盥(うぶだらい)」という岩もあります。ここは楽しくなる場所です。岩が湿っていて、雪も積もっていたので、滑りやすかったですが、寒さも忘れてしまいました。ここは大好きなところです。


こんなところも。小さな滝になっているようです。


浦島神社

浦島神社

浦島神社はこじんまりしているのですが、細部にまで美意識を感じる神社でした。私にとって、「美しい」というのは、”点が高い”のですが、それは美しいものは、言葉を超えているというか、説明がいらないものだからです。また宇宙的な(宇宙的というのは大きなという意味で)場所でした。

蓬山(とこよ)の庭
私が興味を惹かれたのは、浦島伝説に登場してくる蓬山(とこよ)についてです。この庭は「蓬山(とこよ)の庭」と名づけられています。蓬山(とこよ)は万葉集では常世ですが、異世(ことよ)と言われるこの世界ではないところを表します。浦島子が亀に連れられて行った場所です。この世からしてみれば、不老不死といってもいいくらいの時間の流れる場所です。

興味を持つので行くのですが、そこに行ったから何かを得られるかというとそうでもなく…。聖地というのは、実際にその場にあるというのではなく、見えない世界にあるのだと思います。実際に足を運ぶのは、その地に生身の自分が立つということで何かに触れるものがあるからです。


三日月の意匠。ディテールが可愛いのです。

手を洗う場所もいい感じです。


狛犬

亀を購入しました。かわいいです!

この地には、徐福伝説もあります。徐福は不老不死の妙薬を求めて、総勢3000人で中国から海を越えて日本へ渡ったそうで、結局中国には還らずその子孫が日本にいるそうです。浦島伝説とも似ています。去年からアーサー王のタロットを習っているのですが、プリドウェンの船で異世にアンヌンの大釜という、死者を蘇らせる大釜を奪還してきたアーサー王は、総勢300人で行き、還ってこれたのは、7人でした。大変な冒険で、痛手を受けたところも似ているように思います。共通しているのは、そこにはこの地にない特別な物が存在しているということです。


新井崎神社

近くに徐福をお祭りしている神社があると聞き、行ってみました。野生の猿が3匹いて、ちょっと怖かったです。

冠島
新井崎神社は海に面していて、遠くに見えるのが蓬莱(ほうらい)と言われていた冠島です。夏至の日の出にここから新井崎神社へまっすぐ光が射し込むそうです。別名常世島(とこよじま)ともいうそうです。


伊根の船屋

近くにあります。観光地の写真などで見ていたので、規模が小さいのかと思ったら、以外と広範囲に船屋があります。

天の橋立2


籠神社の奥宮が真名井神社です。籠神社から気持ちのいいのどかな道を10分くらい歩いたところです。途中に天の橋立が見えて、水と緑と山々がとても美しくて、本当にこの場所はいいところだなと思いました。

真名井神社は大地のエネルギーが湧き上がってきている場所であり、とても生命力を感じる場所でした。この中にいると、他とは違う大きな丸いドームのような密度の濃い空間に包まれているような感覚がします。磐座があり、お水が湧いていたり、それぞれのパワーもあるのですが、それらが一体になり、大きな空間を形成していて、その場所は大地と宇宙からの気が直接流れ込んでいます。あまりエネルギーを感じない人もここにくれば何か感じると思います。そこだけ違った、包まれるような感じがすると思います。

このような場所にしばらくいると、生命力が活性化してくるのがわかります。だから真名井の井戸の水を飲むと病気が治ると言われているんだなぁ…。その日は雪がちらついていたので、お水に触れたとき、温泉かしら?と思ったくらいのあたたかさでした。


沖縄にもこのような場所に似た波動の土地が残っていて、プリミティブなパワーや生命力を感じる場所です。大地、磐座、水、樹がすべて生きていて、連携しているような、一体感を味わいます。考えてみると、私がツアーを主催した場所はすべてこのような場所でした。富士山の青木ヶ原も、富士山の自然が唯一残っている場所ですし、すべてが循環していて、生態系が壊れていない場所です。生命が循環していくサイクルというものが、脈々と息づいていて、継承されていく、そのような場所にいると自分のエネルギーも循環し、活性化していくように思います。

天の橋立
実際に3.6キロの道を歩いてみました。写真のイメージから、道の両端が10mくらいかと思っていたら、以外と広くて50mはありそうです。籠神社の参道だそうです。中程で神社があり、その近くでお水が湧いています。名水100選にも選ばれているそうです。左右海水なのに、どうして清水が湧いているのか、不思議なところです。近くの温泉も塩分のあるお湯なのに…。
飲んでみるとミネラル分の多いお水でした。


天の橋立

籠神社(このじんじゃ)

天の橋立に行ってきました。ここは元伊勢と呼ばれていて、伊勢神宮へ移られる前に、倭姫が神の声を聞きながら40数年をかけて各地を転々と巡った場所の一つだそうです。天照大神は当地に4年くらい滞在されたそうです。

とても格式の高い神社で、そのような場所は高い波動を感じますが、それ以上にそのときの自分に響きあうものがあったように思いました。自分と波長が合う神社というのは、エネルギーが頭上から身体の中に回転しながら入ってくる感じがします。回転しながら下降して、足の下までエネルギーが抜けていき、自分の中にエネルギーの柱が出来るような感じでしょうか。そうすると大地からもエネルギーが上がってきて、自分の身体を上に昇って抜けていきます。神道では神様のことを「柱」と呼ぶそうですが、この身体の中のエネルギーの軸が出来る感覚もそれに近いものかなと思うことがあります。人間を通して神のエネルギーというものがもたらされるように感じます。また、人間の内部にも響きあうものがあるときにそのようなことが起こるように思います。

私に共鳴する場所というのがあるように、一緒に行った家族にとってもそれぞれの波長に合う磁場というのがあるように思います。それは、実際に行ってみないとわからないことが多いです。ある人が、ある場所に行って、そこでエネルギーが共鳴することは、言い方を変えれば、その地にいらっしゃるまだ見ぬ神様をこの地上に降ろすということかと思います。それは、両方にとってすばらしいことになります。

お参りをしているときに、ふと自分のまわりの人々の幸いを祈ろうという気持ちが湧き上がってきました。以前のブログにも書いていましたが、このところ私はあまり特定のことを願うことをしなかったのですが、「願うこと、望むこと」が少しわかりかけてきたように思いました。自分のことを願うことと、周りのことを願うことは、結局「すべては繋がっているので同じこと」なのだということがわかりました。それならば、周りがいい状態になった方が、自分も楽だから…と思いました。この考え方は、自分にとっては画期的なことです。

人は分離していると思っているときに、頑張りすぎたり、無理をしたり、競争したりするように思います。ずっと昔、自分の家族が病気だったころは、自分が家計を支えていたこともあり、いつも「自分が稼がないと…」と考えていました。その頃は、「今月も家賃の分しか稼げなかった…」とか自分を責めることが多くて、自分の能力の向上を願うことが多かったです。周りのニーズに自分が答えなければいけないという思いが強く、自分の望みよりもそれを重視しすぎていたために、望むこと自体がよくわからず、自分の中が空洞化していたように思います。

そのうちにその状態もも終わりました。だんだん神社巡りが楽しくなってきて、ただその場のエネルギーを感じ、敬虔な気持ちになることが多かったです。そのときに自分の望むことなど頭に浮かばなく、ただそこに立っているということが多かったように思います。私は「場」というものに、とても興味を惹かれるのです。

今回変化を感じたのは、周りの幸せを望むことは、それはニーズからではなく「自分の心からの望み」だということがはっきりわかったことでしょうか。自分の中に「恵み」がもたらされたように感じたのです。私に与えられたものを味わってもいい、受け取ってもいいということがわかるまでにずいぶん時間がかかったなぁと思いますが…。味わう余裕が出てきたのが嬉しかったです。









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